生せんべい物語

家康と岩滑城

矢勝川をはさんで北(写真左側)が阿久比町、南が半田市。正面の森に岩滑城があった

永禄三年(1560)、桶狭間の戦いで今川義元に加勢した徳川家康は織田信長勢に押され、やむなく母(伝通院)のいる坂部城(今の知多郡阿久比町)に逃れて来ました。

そこから伝通院の妹の嫁ぎ先の岩滑(やなべ)城(今の半田市)を訪れようと、さらに南下。矢勝川を渡り半田に着いた時は昼近く、疲労と空腹のために駒の足もにぶっていました。

家康は、とある百姓家の庭先に干してあるせんべいを目にしました。娘みつは、そのせんべいが生であることを恐る恐る申し上げたところ、「いや、生のままでもよい」と、家康はたってそれを所望。いかにも美味しそうに頬ばりました。

そして、家康が半田に滞在中はせんべいを生のまま献上するように申し付けて、百姓家を後にしました。

岩滑城跡に建つ常福院

翌日、献上品を持って岩滑城を訪れ、再び家康に会ったみつは思わず目を見張った。

この方が昨日のお人・・・・。その天下をのむ気概と精悍な面持ちに心を奪われ、一人ひそかに慕うようになりました。

しかし所詮届かぬ思いのはかなさを知ったみつは、家康が陣をととのえ三河に去ったそのとき、知多の山の緑にかこまれた美しい池に姿を消しました。そのしらせに村人がかけつけた時は折りしも昇る朝日にきらきら輝く雲母があるばかりであったそうです。

のちにその雲母にちなんで一枚一枚重ね合せた生せんべいを作るようになったと伝えられてます。

今、矢勝川のほとりの岩滑城跡には、甲城山常福院(勝時が建立)が建っています。かつては城山と呼ばれたこの地は、また弥生時代の遺跡のあるところでもあり、岩滑という地の歴史の古さを思わせます。

抹茶とゆずの開発物語

抹茶

2006年、黒糖・白ふたつの伝統の味に新たな仲間が加わりました。愛知県西尾市の名産である抹茶を100%使った「抹茶味」の生せんべいです。

地元で抹茶を扱う業者からの提案と周囲の仲間たちからの後押しを受け、抹茶味の開発に踏み切りましたが、当初は試行錯誤の連続でした。

抹茶味だけが引き立つのでなく、黒糖と白、そして抹茶と、この3つが相乗効果で美味しく味わえるものにしたい。そのために重要だったのは、「味」「香り」「渋み」のバランスを取ること。

この3つの要素が生せんべいの生地にうまく調和するよう、何度も試作を重ね理想の味を追求しました。

現在、抹茶味の生せんべいは多くの人に愛され、総本家田中屋の新たな代表作となりました。伝統の生せんべいと西尾の抹茶の夢の共演は、伝統をさらに高めるいいものをつくり出したい、という熱い心を持った人たちの夢の共演でもあったのです。

ゆず

コロナ禍が長引く中、『いつか再び人々が外出を楽しむ日が来たら、その頃に新しい商品を提供したい』と考えを巡らせていました。

そこで着目したのが「ゆず」でした。 総本家田中屋では、長年の経験から着色料や人工的な味付けを避け、素材の持つ本来の風味を大切にした商品作りを心がけてきました。

これまでの「黒糖」「白」「抹茶」と並べても色合いが良く、さらに少しインパクトのある味を持つ柑橘系の「ゆず」が、新しい風を吹き込むのにふさわしいと考えました。

最初の試作ではゆずの粉末だけを使用したところ、香りは良く初回としては満足のいく仕上がりでしたが、粉末の量を増やしてみるとさらに味わいが深まりました。しかしそれだけではどこか物足りなさが残り、次にゆずペーストを加えることにしました。

その結果、しっかりとした味わいが生まれ、スタッフ全員に試食してもらったところ、予想以上に高評価を得たのです。

この結果に満足したものの、一般のお客様の声も聞きたくなり、SNSを通じて知人関係に声掛けをし、試食会を実施しました。

試作と試食を繰り返す中で、「もっとゆず感が欲しい」という声が多く寄せられたため、ゆずの皮をスライスして加えることにしました。しかしゆず感を強くしすぎると、苦味が舌に残り、食べ続けるのが難しくなることが判明しました。

ゆずの風味と苦味のバランスを取ることは、思った以上に難しかったのですが、何度も改良して、ついに「ゆず味」の生せんべいが誕生しました。